余生を饗宴に賭す教

誰かの苦しみがせめて無味乾燥ではないように

性別不要論—ジェンダーをレスりたい

 毎日性別が違う。

 朝起きて、今日は男だ、今日は女だ、と思う。俺様がキングだと思う日もあるし、いやどう考えてもプリンセスだろって日が、普通に同率で在る。両極を述べたので勘違いされるかもしれないが、これはスカートでヒールを履きたい気分/男にモテたいから→女だ、大股開いて座りたい気分/女にモテたいから→男だ、という風な、性役割や性規範を内在化した結果では無く、具体的に言えば「今日は私完全に女探偵だ」「今日は女として育てられた男だ」くらい、多様で意味も無く理由を持たない実感だ。私はいつまでもどっちでもないし、どっちでもある、それがいい。毎日自分の中の男と女の分量なんて違うし、突き詰めれば此れは、男女で二分されたるあの性別が云々というより、生命力の種類の直感的な感触なのではないかと思う。現に私の性自認は、「今日の私は黄色だ」という様な表現に代えられると感じている。私の性自認観は全く二元的ではなく、全く固定的ではないのである。然し此の感覚は私に特別の事でもないと考える。ここまで顕著ではないにしろ、誰もが毎日自らの内で男女分量を新たにしており、性自認を微かであれ流動的に捉えることができるのではないか。そもそも、我々は性別を決定すべきだろうか。

 

 性別とは言うまでもなく生殖「のみ」に関係する観念である。性的行為が生殖に限定されず色とりどりな代替形式を獲得した上、人に生を満足させる手段が性以外にいくらでもある時代、試験管でヒト受精卵を作成できる時代で、その下位に属する筈の性別という観念だけが、未だこれ程までに覆し難い根底的社会通念として横たわっている状況が不思議だ。まるで社会的行為全般にとってそれが必要であるかの様に。六歳から十八歳迄の時間、何の葛藤の要請も受けず当たり前に少年として過ごした故かは判らないが、私は生きる上で「性の別」に必要性を感じない。私は先生方から一度も性別を何かの理由にされたことは無かったし、言われるとしたら『この学園の生徒らしくありなさい』という言葉であって、それはむしろ『慈しみ深く勤勉であり、自分の意見を持ちなさい』であった。十九、外界では「性別」がこれ程大きく絶対的な観念として蔓延しているのだと衝撃を受けた事を覚えている。女子校、「性別」が無い場所では、唯人間でいられたのに。

 身体的性の別が在る事は理解している。その性質で以て、「性別」という余りに茫洋な観念が、容赦の無い二元的性格を帯びる事も解る。私が疑問に思うのは、それを生殖以外にも適応される観念かの様に持ち出して、性自認セクシャリティという形に変換し決定・固定・表明することの必然性や必要性の無さだ。

 社会は私に性自認が「どちら」か—―或いは、セクシャリティが「どれ」かを表明してハッキリすることを求めたし、求めている。今となればLGBTQという言葉が大勢の凄まじい闘争の末やっと、漸く、マジョリティに理解されようとしている時分であるから、例えば私の表面的な外見や言動に説明を付け易い*1レズビアンのタチ」を表明すればきっと、「男が好きなの?女が好きなの?」という様な邪気の無い疑問を寄せてきた人々*2を安心させられるのだろうが、やはり私はあらゆる行動や判断に際して「性別」を材料にしたいと思わない。異性愛者なら異性、同性愛者なら同性を好きになる、という事は、私にとって不思議だ。人々が何を基準に何時何処で、自分の性別と、"肉体的に好きになることを選択可能"な人類の性別と、自分の服の性別を一大決心するものなのか、想像もつかない。私はただ好きな人が好きだし、好きな形の布を好きに着るし、好きに振る舞うのだ。そこに「性別」は介在していない。*3

 

 私は(まぁ今のところ)自分の身体的性に違和感を持ってはいない。生殖(性的行為とは全く別)に際していない場面で身体的性に注目する意識が無い。究極に理想を言えば両性具有か両性具"無"がいいけど。やはりどっちでもあるしどっちでもないのが好い。一人称を統一すること自体、少し苦痛に感じる。「私」はどんな時にも妥協点として働くが、「わたし」を使える日はかなり少ない。「小生」や「我」を使うのはそこに性別が無いからであり、もっと人に愛されたい気分の時には「僕」を使うのも清々しい。私は自由でありたい、最大限の選択肢が欲しい。「性別」は「人間」の命に未だ必要なことなのだろうか?本当に?或る日の夜、夢でペニスが生えた時、「あれ、別に生き方変わんないな」と思えた事は、私の人生で誇らしい記憶だ。今日の自分の生命力の種類とか、人間を好きになる感情が、「性別」に基づく必然性も必要性も最早無い。21世紀にもなって男とか女とか、なんつーかダサいのだ。

 

 

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(「少年」時代 高校、文化祭ライブにて)

*1:これもプロトタイプで差別的だ

*2:モヤモヤを解消してあげれず申し訳無い気持ちになったことはあれど、嫌な気持ちになったことは無い。両親もここに含まれている!

*3:もしかしたら私はXジェンダーと呼ばれるのかもしれないが、この枠組み自体、「性別」観念の限界を示している様な気もする

脱幸福の試み、小生の死生観をだらりと

十四の頃からあまり変わっていない死生観ではあるが、齢廿も超え、人生の何とやらを語ってみても既に達観や早熟などと嘲笑される能わず。てなことで、やっと静かに書く。

 

Ⅰ.生に意味はない。ただ与えられた「時間」である
Ⅱ.故に楽しいことや幸せであることは無意味である
Ⅲ.魂は万物のイデアを知る
Ⅳ.美は唯一の、有意味に傾かない光である
Ⅴ.美は善と無関係である、美の対極は醜ではなく滑稽である

Ⅵ.ヒトは動物であり、人類は社会的な足跡であり、人間存在は感官である
Ⅶ.愛には、相手の知を愛する敬愛、肉体を愛する性愛、魂を愛する愛の三別があり、それらは階梯ではない
Ⅷ.識るべきものを識り、感ずべきを感じ、味わうべきを味わった時、「時間」は終わる
Ⅸ.死は唯一の、永遠である
Ⅹ.生と死は平等である


 これが僕の出した結論である。人の生は義務教育に似ている。どこでどのように「時間」を潰していようと"その時"がくれば終わる。全校リレーのアンカーを華々しく走ろうが、凄惨な虐めに遭い続けようが、「時間」がくれば終わる。故にその「時間」の中で貴方がたを無意味に幸福へと追い立てようとする観念は空虚である。これは人の幸福が相対的観念だという様な使い古しの万物尺度論ではなく、幸福という満足感=良いという観念そのものが空虚であるという意味である。いかなる幸福も、「その瞬間の肉体的乃至精神的な快さ」という以上の意味を持たない。全ての幸福さが、感官としての快楽から漏れない。(この空虚な強迫がこれほどまでに人類に蔓延したのは「幸福であるという認識によって満足状態を創り出せる人間存在個体数」が多ければ多いほど、共同体にとって都合が良かったことの蓄積であろうと考える。)君がかつて快楽をどのように感官として受け取ったか−−則ち、どのように「感じ」たか、幸福であったかという問題が、最早それら全てが喪われ遂せた時点に於いて何らかの意味を持つことなどない。幸福強迫者が価値判断者を気取って断罪したがるか、本人が過去の幸福を浅ましくも再び舐め味わんとせぬ限りは。

 共同体の為、若しくは「貴方の為」と嘯く他人の為に、貴方が無理に幸福になる必要は一切無い。幸福になる為に貴方の不幸を軽んじなくてよいし、貴方に到底忘れ得ぬ悲しみや苦しみや痛みがあるならば、それらを生涯大事に抱えて不幸に生き続けることは貴方の「時間」として誰に何を言われ得るものでもない。また其れは幸福な人生なるものに劣るところなど一切無い。そして勿論、幸福という状態で「時間」を潰さんとするなら、それらの苦は直ぐに棄ててもよい。自分と無関係であれ、自分の視界に不幸がちらつくことすら何故か許せぬ類の人がいる。その人の為に貴方の「時間」を幸福にくれてやるな。それはあまりに空虚な試みであり、「不幸な死」が在るとすれば、彼はそこにこそ訪れるに違いない。

 人の生状態で本質的に重要なことは、幸福であることではなく、「時間」をただ貴方のものとして確固とし、怖れないこと−−或いは−−貴方が私と似た様な厭世観を持つならば、生などに本気にならない事である。