余生を饗宴に賭す教

誰かの苦しみがせめて無味乾燥ではないように

脱幸福の試み、小生の死生観をだらりと

十四の頃からあまり変わっていない死生観ではあるが、齢廿も超え、人生の何とやらを語ってみても既に達観や早熟などと嘲笑される能わず。てなことで、やっと静かに書く。

 

Ⅰ.生に意味はない。ただ与えられた「時間」である
Ⅱ.故に楽しいことや幸せであることは無意味である
Ⅲ.魂は万物のイデアを知る
Ⅳ.美は唯一の、有意味に傾かない光である
Ⅴ.美は善と無関係である、美の対極は醜ではなく滑稽である

Ⅵ.ヒトは動物であり、人類は社会的な足跡であり、人間存在は感官である
Ⅶ.愛には、相手の知を愛する敬愛、肉体を愛する性愛、魂を愛する愛の三別があり、それらは階梯ではない
Ⅷ.識るべきものを識り、感ずべきを感じ、味わうべきを味わった時、「時間」は終わる
Ⅸ.死は唯一の、永遠である
Ⅹ.生と死は平等である


 これが僕の出した結論である。人の生は義務教育に似ている。どこでどのように「時間」を潰していようと"その時"がくれば終わる。全校リレーのアンカーを華々しく走ろうが、凄惨な虐めに遭い続けようが、「時間」がくれば終わる。故にその「時間」の中で貴方がたを無意味に幸福へと追い立てようとする観念は空虚である。これは人の幸福が相対的観念だという様な使い古しの万物尺度論ではなく、幸福という満足感=良いという観念そのものが空虚であるという意味である。いかなる幸福も、「その瞬間の肉体的乃至精神的な快さ」という以上の意味を持たない。全ての幸福さが、感官としての快楽から漏れない。(この空虚な強迫がこれほどまでに人類に蔓延したのは「幸福であるという認識によって満足状態を創り出せる人間存在個体数」が多ければ多いほど、共同体にとって都合が良かったことの蓄積であろうと考える。)君がかつて快楽をどのように感官として受け取ったか−−則ち、どのように「感じ」たか、幸福であったかという問題が、最早それら全てが喪われ遂せた時点に於いて何らかの意味を持つことなどない。幸福強迫者が価値判断者を気取って断罪したがるか、本人が過去の幸福を浅ましくも再び舐め味わんとせぬ限りは。

 共同体の為、若しくは「貴方の為」と嘯く他人の為に、貴方が無理に幸福になる必要は一切無い。幸福になる為に貴方の不幸を軽んじなくてよいし、貴方に到底忘れ得ぬ悲しみや苦しみや痛みがあるならば、それらを生涯大事に抱えて不幸に生き続けることは貴方の「時間」として誰に何を言われ得るものでもない。また其れは幸福な人生なるものに劣るところなど一切無い。そして勿論、幸福という状態で「時間」を潰さんとするなら、それらの苦は直ぐに棄ててもよい。自分と無関係であれ、自分の視界に不幸がちらつくことすら何故か許せぬ類の人がいる。その人の為に貴方の「時間」を幸福にくれてやるな。それはあまりに空虚な試みであり、「不幸な死」が在るとすれば、彼はそこにこそ訪れるに違いない。

 人の生状態で本質的に重要なことは、幸福であることではなく、「時間」をただ貴方のものとして確固とし、怖れないこと−−或いは−−貴方が私と似た様な厭世観を持つならば、生などに本気にならない事である。